素直でいると悪口は存在しなくなる

今日は節分ですね。

「鬼は外」「福は内」
こんな掛け声で豆をまくけれど。

 

さっき面白いメッセージ?気づき?がふと来たので
記録として書いておこうと思います。

 

昨日の記事にも関わることなのかもですが。

嫌いな人や嫌な思いをした人に対して
「悪口」や「陰口」をつい言ってしまいますよね。
個人のこともそうだし、世間的なゴシップとかも。

これってその嫌な出来事の少しあとで、
その本人がいなくなった場所で、
かつ本人以外の他人に言うことで
「悪口」や「陰口」となると思うんです。

じゃあ、なぜ素直だとそうならないかというと
嫌だと思ったその時に、まっすぐ本人に伝えられるから。

その場で完結。
本人に伝えてすっきりしたら、他人に
そのことを言いたくなる必要がなくなると思うんです。

悪口って、聞いてても陰湿で気分が良くないし
言うのも、その時は一時的に発散されるかもしれないけど
行為としては「(自分を)わかってほしい」の一環なので、
後ほど、この”問題”をわからせる出来事を強く引き寄せてしまいます。

自分の思う(そこにいない人のことやものの)好き嫌いや価値観を
別に他人にわざわざ伝えて、知ってもらう(わかってもらう)
必要なんて無いんですよね〜。

自分が自信を持ってそれを好きでいたり、やっていたならば
「◯◯は嫌い」を言う必要性も、言いたくもならないと思います。

 

「鬼」も「福」も、全部自分の中にあるんやな。
そんなふうに思った節分の日です。

人間関係でつまずくパターン、これで最後にしよう

前の記事の続きです。

ある日突然、1年半ほど親密に仲良くしていた人から
「もうこれ以上は無理。ごめん。今までありがとう」
と言われ、有無も言わさずSNSをブロックされてしまいました。

ずっと毎日のようにやり取りしていて
この日も直前まで何もなく楽しく会話していたので、
すごくびっくりしたし直後は気が動転しましたが
今までとは違って、すぐに冷静に俯瞰することができました。

突然友人から別れを切り出されることは、過去にも何度も経験しています。
またかぁ…と思いつつ、同じことまたしてしまったんや…とも思いました。

 

わたしは彼女に対して、ありのままで付き合ってきたつもりでした。
でも本当のところはそうではなかった。

今の人間関係でこの方が唯一の課題だとは薄々気づいていて、
今年に入って目に余る出来事も増えてきていたこともあり
なんとなくこのままではいられないだろうなという予感はしていました。

彼女に対する過剰な気遣いと優しさと、
本当の気持ちを言えなかったことが積み重なっていった結果だと思います。
わたしが勝手に抱いていた「恐れ」。
彼女を信じきれなかった証拠でもあります。

気を遣って本音を隠し続けてきたことは彼女のためにもならないし、
当然それらは自分に倍返しでかえってきてしまいます。
彼女はわたしに教えてくれたんだと思います。


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相手のことは予測がつきません。
エスパーではないから、相手のことなどわからないのは普通。

相手に対して「こうしてあげたらよかった」とか
「こう思ってるんじゃないか」とかエンドレスに
ぐるぐる思いを巡らせることは無駄なことです。
それは全部想像でしか無いから。

また、相手に自分のことをわかってほしいと思うと、
反対にそうではない現実を強く引き寄せます。

大事なのは、相手に対してその時
「自分が素直に、相手に気持ちや態度をあらわしていたかどうか」。
相手のことではなくて、自分の気持ちに焦点を当てることです。

嫌なら嫌という。やめてって言う。
されたその時に正直に意思を伝える。
そうすること、出来ることが、自分に素直であるということだと思います。

 

あと、彼女がどんな人かどうかは全然関係なくって
相手が今回たまたま彼女であっただけで、
こうなった原因は自分にあるってことです。

出来事の表向きだけ見て相手を悪く言うだけでは
問題は解決しないし、また同じ嫌な思いを繰り返すだけです。

ちゃんとまっすぐ素直に応じていたかどうか。
自分に嘘はついていなかったか?
もやもやしてるのに正直な感情を出さなかったり、
言いたい言葉を飲み込んでいなかったか?

同じようにつまづいた過去にも当てはめてみたら、
やっぱり素直でない自分だったから繰り返していたことがわかります。

 

また、これは同じく相手の彼女の問題でもあり学びでもあります。
お互いに学びあう役目があって、それが今回はこういう形で幕を閉じました。

彼女もこの先同じような学びがあるかもしれないけど
ちゃんと乗り越えられると思うし、大丈夫と信じています。

 

出会う人達、特に辛かった人間関係の出来事は
すべて自分にいろいろとヒントを教えてくれています。

わたしはもう繰り返しません。
出会う相手がどんな人であれ、自信を持って素直な自分で接していきます。

わたしが成長して楽しく幸せになることが、
これまで関わってきた人に対するお礼みたいなものだと思うから。

当たり前が当たり前でない世界に

腰、まだ完全ではないものの
痛みがかなり落ち着いてきて余裕が出てきました。
そろそろ想いを載せていこうかなと。

やや内容が向こうよりかな?と思って本ブログに載せようか、
こちらに載せようか迷ったのですが
身体と心のつながりもあるので、ここに載せますね。

 

2017年に入って少ししてから、流れがまた変化した気がします。
腰いわした頃から2日前くらいまで、ちょっとだけモヤッとした
色々混じったような感覚がありました。

わたしなりにいろいろ試してみたこともあり、
昨日夜くらいから腰の痛みが急にまたすーっと減って
精神の方も一緒にスコンと抜けたようです♪

流れの変化ですが、前からちょいちょい出会ってた感覚に
だんだん確信出来てきたというか。
説明が難しいんですけど。

今までは普通、常識やんね〜みたいに思ってたことや
普遍と言われた時空、時間空間距離など法則的なものが
こりゃあやっぱそうではないな、と確信を得てきてます。

これはこうなるのが普通、、、というのが覆される。
なんか不思議やけども…これって。。みたいな。

最近では傷の治り、痛みのとれ方にはじまり、
思考/価値観の変化、シンクロ、以心伝心、
科学的に説明の付かないことなど。

スピリチュアル、精神世界とかも、わたしの中ではもう普通で
日常生活にも随分前からあるし、特別感はないんです。
(以前は出会う人によって気づかされることもありましたが
最近は減ってきました。違和感を感じなくなってきた。)

当たり前やん、ていわれてたことが実はそうじゃなかったり。
目に見えない、珍しい、怪しい、と言われていたものが普通なんです。
自分だけでなく周りもそれに気づき始めてるなってのが解るんです〜。
あと、気づいてない人との違いにも。

あ、気づいてる気づいてないが、優れてる劣ってるというわけではなく。
そういったジャッジがもう古い感じがします。
上下とか善悪とか損得とか
馬鹿にしたり決めつけたりとか。なんか古い。

たまに街中にいる京都特有のごっつ偉そうな偏屈爺を見て
腹立てたりするけど。笑
ま、こういう人もいるよね〜、で終わらすようにしてます。

縦でなく、横繋がり。
否定でなく、尊重。
しっかり自分に集中して愛を持って生きていたら
相手を信じられるから、自然とそうなるはず。

赤信号みんなで渡れば怖くない、
みんなと一緒なら安心安全、
がむしゃらに一生懸命頑張れの「ど根性精神」、
脱個性、権力社会、対処療法、物質絶対主義など
昔信じられてきたもの(洗脳に近い?)が
もう相当崩壊してきてるのではないかなぁ・・・

個の時代。
自分の意思で決める。
頼れるところに頼りつつも、主導権は自分。
基本は自分から行動していく。

 

バランスだとは思うんです。
物質に囚われすぎている、または地に足つかず
スピリチュアルばかりに傾倒していると、
何のために地球にきたかわからないし。

「他の人とは違う」「空気が読めない」「変人」であることを
隠す時代はもう終わりました。
その変さこそが強みであり、それが他でもない自分なんです。

地球にいる今の自分を素直に生きる。
好きなところ嫌なところも全部ひっくるめて受け容れて生きる。
なにより、短い人生おもいきり楽しむことだなぁと思います。